2007年 02月 03日
昔読んだ太宰の本の中で、太宰はおおよそこんなことを書いていた。“小説なんて、1行の真実を書くために、100行の虚構で塗り固めるものだ”みたいな。 本書『タペストリーホワイト』の場合、3行で書ける粗筋を、10000行の思弁と哲学で埋め固めたような読後感である。書き出しの設定や背景から、この物語はどこへ進むのだろうと思い読み始めたのだが、結局は、“女性主人公の姉が○○して、数年後、彼女の彼氏もまた○○し、結局彼女が選択した虚無感からの脱出方法もまた○○というものだった”という粗筋=本筋が多くの言葉で埋め尽くされているのみなのである。物語は、どこへも進まないのである。 大崎善生自身が、昔どこかの記事で書いていたことに、(これもおおよその感じなのだが)“小説や文章を書くという作業は言葉を頭から搾り出す作業である”という作家としての姿勢を示したものがあり、そのとき評者は大いに頷いたのを覚えている。確かに、この作家の搾り出す言葉や世界には瑞々しさや透明感が存在し、それは作家としての苦悩の産物だと感ずるものがある。 ところが本書の場合、搾り出されているのが言葉というより作者のフィロソフィー(哲学)なのである。宇宙の中の自分というちっぽけな存在、学生運動という目的を見失ったエネルギー、喪失の充満した虚無、多分そんなものを表現したかったのだと思うのだが、それらを紡ぐ言葉が物語を紡いでいないのである。この作者の持っている感性というものが好きな評者には、これまでの作品群、色々と沁み込んでくるものがあったが、今回はそれがないのである。 評者にとって、大崎善生、大好きな作家である。もう一度『パイロットフィッシュ』のような作品に出会いたい。言葉を搾り出すだけでなく、物語を搾り出したような、そんな作品に期待したい。そんなことを考えたのことども。(20070203) ※内ゲバ、鉄パイプ、そんな世界が少しだけ見えた気がする。(書評No693) 書評一覧 ↑↑↑「本のことども」by聖月書評一覧はこちら
by kotodomo
| 2007-02-03 12:57
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