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2005年 05月 31日

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』を読んで考えたことども

軍用犬や、警察犬の話が出てくるのだけど・・・
犬の命も大切なのだけど、武器として割り切って考えたとき・・・

①例えば、立て篭もり犯が銃器を持って立て篭もっているとき、いざ突入って場面で、訓練されたシェパードなんかを一気に三方6匹くらい放り込むのはどうだろう?
自分が犯人だったら、人間じゃなく動物が飛び込んできた時点でビックリして対応できないような気がするのだが・・・如何に?

②例えば、小説世界で、ある重要人物の暗殺を考える。護衛やセキュリティで守られた暗黒世界のボス。
計画の詳細は明らかにされない。そして、護衛に守られながら車から降りたボスを襲ったものは・・・63匹のドーベルマンだった!というのは・・・如何に?

ところで、評者は特に犬好きではない。猫より犬のほうがくらいの感じ。
人様の犬の頭をなでたりもするが・・・実は怖がっている気持ちのほうが強いような弱虫である。
人間世界のスーパーサラリーマンにも弱点が・・・
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by kotodomo | 2005-05-31 11:03 | メモる | Trackback | Comments(2)
2005年 05月 30日

◎◎「ベルカ、吠えないのか?」 古川日出男 文藝春秋 1800円 2005/4

b0037682_2331547.jpg 評者が最初に読んだ古川作品が◎『13』。その後◎◎『アラビアの夜の種族』 ○『サウンドトラック』で再び古川作品を堪能し、すると「JardinSoleil」の四季さんが、文庫化された際に二つの単行本が一つに収蔵された『沈黙/アビシニアン』(←四季さんの感想です)にお薦めマークをつけたので、早速単行本の方の◎『アビシニアン』を読んだところで、当然のように四季さんから『沈黙』のほうも面白いですよと言われ、そのとき評者はこういう風に返事をしたのを記憶している。いや、多分、面白いとは思うのですが、古川作品て深呼吸して気を入れて読まないといけないので、しばし休憩、いずれ・・・みたいな。

 ところが、その後に読んだ◎◎『ボディ・アンド・ソウル』○『gift』があまりにも軽妙。それまでの作品群のG重圧を忘れさせるような、プカプカ浮いちゃうような、そんな逆Gの重圧を感じるような浮遊感。

 結局、今度の古川作品がどちらの作品群に位置するのかも確認せずに、本書『ベルカ、吠えないのか?』を読み出した評者なのである。結論は前者。重量級。軽みや可笑しみを感じさせる表現も交えども、奥深く、概念深く、疲れさせてくれる。粗筋作家ではなく文体作家だと、評者は古川日出男を称するが、それでも『アラビアの夜の種族』で見せた紡ぐ作家の力量は相当なもので、やはり最終的な評価は◎◎に落ち着いた次第なのである。

 アリューシャン列島のキスカ島、第二大戦終戦間際の軍用犬の系譜はそこから始まる。彼らが紡ぐクロニクル。地図をハワイ、アメリカ、ベトナム、ソ連、アフガニスタン・・・と移動していき、歴史を局地戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン紛争・・・)をと彷徨っていく子孫への系譜、祖先からの系譜。そして作者はそれを結び紡ぎ結び紡ぐ。う~ん、超絶小説なり。

 345頁の小説なのだが、これから読もうとする人は、600頁の長編作品に挑むくらいの覚悟をされたし。深く深呼吸して、そして息を吸い込み、息継ぎなしでメドレーリレーに挑むくらいの覚悟をされたし。たったこれだけ読むのに、評者の脳みその皺はシワシワシワワとなってしまったぞ。思考力が激減したまま、この書評を書いているぞ。

 読み終えて思ったのだが、これだけの作品となると、なにかの賞を取るに相応しい。直木賞でもなし、芥川賞でもなし・・・一番相応しいのは三島由紀夫の賞あたりか。いや、もっといいのは古川日出男賞なんてのを作って、自分が一番最初の受賞者になるのが、比喩としては一番相応しいのかもしれない。

 そうそう、賞のことで思い出したが、本日2005/5/30の讀賣夕刊にこんな記事があった。“三島・山本賞で「候補作ねじれ」”という題で、三島賞の候補に◎◎『となり町戦争』三崎亜記が、山本周五郎賞の候補に『ナラタージュ』島本理生が選ばれたのはジャンルのねじれだと記者(署名記事)は書いている。三島賞=文芸作品、山本賞=大衆作品、ゆえに『となり町戦争』=エンタメ、『ナラタージュ』=文芸、そういうジャンルの作品が候補になるのはねじれだという・・・ジャンルを読み間違っている。簡単にわかりやすく言えば、小説の長短は別にしても、『となり町戦争』は芥川賞の選考に耐えられる文芸性はあるが、『ナラタージュ』は文芸性よりは大衆への共感性で成り立っており、芥川賞という文芸性の強いジャンルには耐えられない作品なのである。好悪の話ではなく、あくまでジャンルの話で。だから『となり町戦争』を読んで批判的な感想の多くは、ジャンルを誤ってエンタメとして読んでいるところに根源的な要因があるのである。はっきり言おう。『となり町戦争』は文芸作品である。『ナラタージュ』は、優れた大衆作品である・・・評者には、ち~っともわからんかったが、そういう風に高評価の方々は共感しているようだ。

 同様に、本書の評価も、どういうジャンルの本を読んでいるかの読者の“つもり”で評価はわかれてくるだろう。じゃあ、どういうジャンルかって?今から、深呼吸して三島由紀夫全集を読破するくらい気力と体力がいる読書ジャンルである。その気のある方は、その“つもり”で読むべし。(20050530)

※なんか、久々、勝手な持論を吠えてしまった。聖月、吠えないのか?もう吠えた。(書評No524)

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by kotodomo | 2005-05-30 23:36 | 書評 | Trackback(18) | Comments(12)
2005年 05月 30日

○「太平洋ひとりぼっち」 堀江謙一 ◎◎「始祖鳥記」  飯嶋和一

b0037682_7412248.jpgb0037682_7413573.jpgずっと捜していた本があった。「太平洋ひとりぼっち」である。ある時、何か面白い本はないだろうかと考えた。考えていると、小学生の時読んだアムンゼンの探検記のようなものが読みたくなった。そこで、思いついた。評者の年齢より上の世代は誰でも知っている本である。誰でも知っている作者である。

ところがである。ないのである。本屋に行くたびに、頭文字「ほ」の作者のコーナーを眺めるのだがないのである。星新一は必ずあるのに、堀江謙一はないのである。堀辰雄があっても、堀江謙一はないのである。堀田あけみがあっても。。。しつこいか。15年以上、置いてあれば買おうと思っていた。お店に注文すればいいじゃないかと思うかもしれないが、そこまではしたくない。出版社すら判らないので、注文するのも面倒だったのである。

インターネットに触れたとき、最初はその世界のありがたみが解からなかった。インターネットで本を買う?店で買えばいいのに、わざわざネットで注文しなくたってと、うそぶいていた。実際使ってみると、これが便利なことこの上ない。著者で検索すると、その著者が書いた本がほとんどすべて検索される。文庫化されているかどうかまで判るので、文庫を買わずに高い単行本を、店先で衝動的に買ってしまうようなこともない。そんな便利さに感心していて、ふと思いついた。そうそう「太平洋ひとりぼっち」。新潮社から出ていると思ったら、福武書店。在庫僅少。ネット購入。宅配便にて無事到着。やったね(^^)v。

ページをめくって驚いた。マーメイド号での太平洋単独横断は1962年。評者の生まれ年。じゃあ、記憶にある堀江謙一の冒険は別の冒険なのかと思う。巻末を見て、また驚いた。福武書店で文庫化したのが1994年。手許にある本は、その第1刷。ということは、文庫化したのはいいけれど、誰も買わないので増刷してないのかなと考える。どうでもいいが、そんな本を読みたいと思う評者は、日本でも珍しいのかと思う。

「始祖鳥記」は傑作の誉れ高い。評者としては「神無き月十番目の夜」のほうが圧倒されたような気もするが、「始祖鳥記」には男のロマンがある。夢がある。江戸時代天明期、備前岡山の空飛ぶ表具師・幸吉の物語である。幼少期の遊女とのエピソード、諸国を渡り歩く砂絵師との心の交流の場面では、「神無き月」では体験できない熱い涙が頬を伝った。大人になるにつれ、幸吉は空を飛ぶことに憧れる。空を飛んでみようとする。手造り大凧にいろいろと工夫を重ねるにつれ、段々と飛べるようになってくる。一方、岡山の町では、毎夜怪鳥鵺(ぬえ)が飛び回り、腐敗しきった藩政を批判しながら飛ぶという噂が流れる。奉行方も黙ってはいられない。もともと民が政(まつりごと)に対する不満を持っているのはわかっている。そこへ鵺という代弁者が現れ、民衆の心がそのことで波を立てるというのは不届きなのである。この物語は、怪鳥鵺の正体である幸吉を捕らえようと、奉行所のお役人が出動する場面から始まる。怪鳥鵺の噂が出なくとも、幸吉は捕らえられていただろう。腐敗政治が蔓延(はびこ)り、民が困窮している世にあっては、新しい動き、珍しい動きは、世の中を批判するためにあるのだと、すねたお上が曲解するだけだからである。人間というのは、空に憧れるものじゃないか。鳥のように飛んでみたいと思うのは、当たり前じゃないか。実際に飛んだら捕らえられる。昔は、そうだったんだ。いや、今でもそうである。

「太平洋ひとりぼっち」は、堀江謙一が1962年に、日本からアメリカまで、マーメイド号に乗って、無寄航・単独で太平洋を横断した、作者自らの手による冒険記録である。一人で、食料や水分の補給なしに、太平洋を横断。嵐に何度も遭遇し、他の船影を見ない日が何日も続き、クラゲの大群に出会い、米軍機が偵察に飛来する冒険が物語りの一方的な側面である。実はその一方で、堀江謙一は帰国後、起訴されそうになっている。密出国の罪である。著者は出発前、役所に出向いて査証の発行を要請していた。しかし、まだ海外渡航の自由も、今と比べると格段に遅れている当時、冒険家に査証を出すお役人なんていなかったのである。待ちきれず旅立った著者をアメリカは盛大に迎えてくれ、帰国すると処罰問題が待っていた。最終的には起訴されず、この冒険がきっかけで、後の冒険家たちには査証が発行されるようになったのである。へえ、30年以上前は、自由が制限されていたんだ。いや、今でもそうである。

「始祖鳥記」を読んだとき誰もが感じるのは、幸吉の飛ぶことに対する理解を超えた情熱である。一流の表具師の立場を捨てても飛ぼうとする。夢を捨てたように見えて、その情熱は晩年までくすぶっている。飛ぶという行為が、自分の今の生活を一変させるものだということがわかっていても飛ぶ。その情熱の根底にあるものは、読む者の理解を超えている。

「太平洋ひとりぼっち」の航海を終えて、堀江謙一を待っていたのは"なぜ太平洋を横断しようなんて考えたのか"という質問責めである。アメリカで質問されたとき、通訳が勝手に"そこに海があるから"と答えたことに怒っている。そんなキザな二番煎じなことは言わないと。彼の答えはこうである。ヨットが好きになる。ちょっと遠くまで航海したくなる。もっと遠くまで航海したくなる。確かに目の前に太平洋が広がるが、そこに太平洋があるから横断するのではない。ヨットが好きなら、長い航海をしたいなと誰でも思う。そして、対岸にあるのがアメリカだったら、そこまでヨッティングしたいなと誰もが夢見る。自分は実行しただけだと、堀江青年はその心情を吐露しているのである。

「始祖鳥記」の幸吉も、そんな心情だったのではないか。少し飛べるようになって、飛ぶことが好きになって、もっと遠くまで飛べないかと考え。そして、一旦は諦めたように、幼なじみ源太郎と一緒になって、船に乗り、諸国廻船の身の上となる。この最初の旅が、堀江青年の旅と重なってしょうがない。大阪湾から、紀伊半島、八丈島、星図による位置取り。結局、幸吉は晩年陸にあがり、再度身を興し、それでも冒険の炎をくすぶらせているのだが。

江戸の昔も、30年以上前も自由は制限されていたが、今でもそうである。嘘だと思うなら、パラシュートを着けて、霞ヶ関ビル(評者は古い?)からでも、東京タワーからでも飛び降りてみればいい。処罰の軽重はわからないが、まあまず事情聴取ってところからであろう。ボートの上に家を建てて、これが私の家だと言ってみればいい。キャンピングカーに住んでいるから、住所はありませんと役所に楯突けばいい。そう、自由なことをしようとしても、制限だらけなのである。キムタクがサーフィンに行ったという種子島。あそこの海に潜ると伊勢えびがいるらしい。潜ってつかまえても、時期じゃなければ密漁と言われるだろう。時期でも、地元の漁師に見つかれば、漁業権もないのにと、密漁と言われるだろう。ああ、空を飛べて、海も走れて、伊勢えびも獲れる、そんなマシンと自由が欲しい。

まとめとして言おう。「太平洋ひとりぼっち」は、簡単に手に入るのかどうかわからない。評者が買った本が、日本で最後の「太平洋ひとりぼっち」だったらゴメンナサイm(__)m。「神無き月」は評者が衝撃を受けた本であったが、「始祖鳥記」は万人が推す巧著である。
※今回は、「太平洋ひとりぼっち」の現状がわからないので、どちらの本とも自分で捜してくださいとだけ、言っておこう。まあ「始祖鳥記」は2001年のこのミス5位の作品だから、捜しやすいと思うが。

それと、評者は今回の書評で、今までの方針を捨ててしまったことになる。いや、2冊同文中紹介というスタイルではない。これは、今回限りである。実は「本のことども」開始以来、同じ著者による本を週を違えて紹介したことはなかったのである。そのスタイルを続けようと思えば、まだまだ続けられたのだが飯嶋和一を再度紹介したことで、その方針は今回で一応縛りがなくなったこととなる。スタイル継続は簡単なのだが、一度紹介した著者の新たな傑作を読んでも紹介できないっていうのは、何とも勿体無い話だからである。
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by kotodomo | 2005-05-30 07:45 | 書評 | Trackback | Comments(0)
2005年 05月 30日

◎◎「始祖鳥記」  飯嶋和一 〇「太平洋ひとりぼっち」 堀江謙一 

b0037682_7412248.jpgb0037682_7413573.jpg ずっと捜していた本があった。「太平洋ひとりぼっち」である。ある時、何か面白い本はないだろうかと考えた。考えていると、小学生の時読んだアムンゼンの探検記のようなものが読みたくなった。そこで、思いついた。評者の年齢より上の世代は誰でも知っている本である。誰でも知っている作者である。

 ところがである。ないのである。本屋に行くたびに、頭文字「ほ」の作者のコーナーを眺めるのだがないのである。星新一は必ずあるのに、堀江謙一はないのである。堀辰雄があっても、堀江謙一はないのである。堀田あけみがあっても。。。しつこいか。15年以上、置いてあれば買おうと思っていた。お店に注文すればいいじゃないかと思うかもしれないが、そこまではしたくない。出版社すら判らないので、注文するのも面倒だったのである。

 インターネットに触れたとき、最初はその世界のありがたみが解からなかった。インターネットで本を買う?店で買えばいいのに、わざわざネットで注文しなくたってと、うそぶいていた。実際使ってみると、これが便利なことこの上ない。著者で検索すると、その著者が書いた本がほとんどすべて検索される。文庫化されているかどうかまで判るので、文庫を買わずに高い単行本を、店先で衝動的に買ってしまうようなこともない。そんな便利さに感心していて、ふと思いついた。そうそう「太平洋ひとりぼっち」。新潮社から出ていると思ったら、福武書店。在庫僅少。ネット購入。宅配便にて無事到着。やったね(^^)v。

 ページをめくって驚いた。マーメイド号での太平洋単独横断は1962年。評者の生まれ年。じゃあ、記憶にある堀江謙一の冒険は別の冒険なのかと思う。巻末を見て、また驚いた。福武書店で文庫化したのが1994年。手許にある本は、その第1刷。ということは、文庫化したのはいいけれど、誰も買わないので増刷してないのかなと考える。どうでもいいが、そんな本を読みたいと思う評者は、日本でも珍しいのかと思う。

 「始祖鳥記」は傑作の誉れ高い。評者としては「神無き月十番目の夜」のほうが圧倒されたような気もするが、「始祖鳥記」には男のロマンがある。夢がある。江戸時代天明期、備前岡山の空飛ぶ表具師・幸吉の物語である。幼少期の遊女とのエピソード、諸国を渡り歩く砂絵師との心の交流の場面では、「神無き月」では体験できない熱い涙が頬を伝った。大人になるにつれ、幸吉は空を飛ぶことに憧れる。空を飛んでみようとする。手造り大凧にいろいろと工夫を重ねるにつれ、段々と飛べるようになってくる。一方、岡山の町では、毎夜怪鳥鵺(ぬえ)が飛び回り、腐敗しきった藩政を批判しながら飛ぶという噂が流れる。奉行方も黙ってはいられない。もともと民が政(まつりごと)に対する不満を持っているのはわかっている。そこへ鵺という代弁者が現れ、民衆の心がそのことで波を立てるというのは不届きなのである。この物語は、怪鳥鵺の正体である幸吉を捕らえようと、奉行所のお役人が出動する場面から始まる。怪鳥鵺の噂が出なくとも、幸吉は捕らえられていただろう。腐敗政治が蔓延(はびこ)り、民が困窮している世にあっては、新しい動き、珍しい動きは、世の中を批判するためにあるのだと、すねたお上が曲解するだけだからである。人間というのは、空に憧れるものじゃないか。鳥のように飛んでみたいと思うのは、当たり前じゃないか。実際に飛んだら捕らえられる。昔は、そうだったんだ。いや、今でもそうである。

 「太平洋ひとりぼっち」は、堀江謙一が1962年に、日本からアメリカまで、マーメイド号に乗って、無寄航・単独で太平洋を横断した、作者自らの手による冒険記録である。一人で、食料や水分の補給なしに、太平洋を横断。嵐に何度も遭遇し、他の船影を見ない日が何日も続き、クラゲの大群に出会い、米軍機が偵察に飛来する冒険が物語りの一方的な側面である。実はその一方で、堀江謙一は帰国後、起訴されそうになっている。密出国の罪である。著者は出発前、役所に出向いて査証の発行を要請していた。しかし、まだ海外渡航の自由も、今と比べると格段に遅れている当時、冒険家に査証を出すお役人なんていなかったのである。待ちきれず旅立った著者をアメリカは盛大に迎えてくれ、帰国すると処罰問題が待っていた。最終的には起訴されず、この冒険がきっかけで、後の冒険家たちには査証が発行されるようになったのである。へえ、30年以上前は、自由が制限されていたんだ。いや、今でもそうである。

 「始祖鳥記」を読んだとき誰もが感じるのは、幸吉の飛ぶことに対する理解を超えた情熱である。一流の表具師の立場を捨てても飛ぼうとする。夢を捨てたように見えて、その情熱は晩年までくすぶっている。飛ぶという行為が、自分の今の生活を一変させるものだということがわかっていても飛ぶ。その情熱の根底にあるものは、読む者の理解を超えている。

 「太平洋ひとりぼっち」の航海を終えて、堀江謙一を待っていたのは"なぜ太平洋を横断しようなんて考えたのか"という質問責めである。アメリカで質問されたとき、通訳が勝手に"そこに海があるから"と答えたことに怒っている。そんなキザな二番煎じなことは言わないと。彼の答えはこうである。ヨットが好きになる。ちょっと遠くまで航海したくなる。もっと遠くまで航海したくなる。確かに目の前に太平洋が広がるが、そこに太平洋があるから横断するのではない。ヨットが好きなら、長い航海をしたいなと誰でも思う。そして、対岸にあるのがアメリカだったら、そこまでヨッティングしたいなと誰もが夢見る。自分は実行しただけだと、堀江青年はその心情を吐露しているのである。

 「始祖鳥記」の幸吉も、そんな心情だったのではないか。少し飛べるようになって、飛ぶことが好きになって、もっと遠くまで飛べないかと考え。そして、一旦は諦めたように、幼なじみ源太郎と一緒になって、船に乗り、諸国廻船の身の上となる。この最初の旅が、堀江青年の旅と重なってしょうがない。大阪湾から、紀伊半島、八丈島、星図による位置取り。結局、幸吉は晩年陸にあがり、再度身を興し、それでも冒険の炎をくすぶらせているのだが。

 江戸の昔も、30年以上前も自由は制限されていたが、今でもそうである。嘘だと思うなら、パラシュートを着けて、霞ヶ関ビル(評者は古い?)からでも、東京タワーからでも飛び降りてみればいい。処罰の軽重はわからないが、まあまず事情聴取ってところからであろう。ボートの上に家を建てて、これが私の家だと言ってみればいい。キャンピングカーに住んでいるから、住所はありませんと役所に楯突けばいい。そう、自由なことをしようとしても、制限だらけなのである。キムタクがサーフィンに行ったという種子島。あそこの海に潜ると伊勢えびがいるらしい。潜ってつかまえても、時期じゃなければ密漁と言われるだろう。時期でも、地元の漁師に見つかれば、漁業権もないのにと、密漁と言われるだろう。ああ、空を飛べて、海も走れて、伊勢えびも獲れる、そんなマシンと自由が欲しい。

 まとめとして言おう。「太平洋ひとりぼっち」は、簡単に手に入るのかどうかわからない。評者が買った本が、日本で最後の「太平洋ひとりぼっち」だったらゴメンナサイm(__)m。「神無き月」は評者が衝撃を受けた本であったが、「始祖鳥記」は万人が推す巧著である。

※今回は、「太平洋ひとりぼっち」の現状がわからないので、どちらの本とも自分で捜してくださいとだけ、言っておこう。まあ「始祖鳥記」は2001年のこのミス5位の作品だから、捜しやすいと思うが。

それと、評者は今回の書評で、今までの方針を捨ててしまったことになる。いや、2冊同文中紹介というスタイルではない。これは、今回限りである。実は「本のことども」開始以来、同じ著者による本を週を違えて紹介したことはなかったのである。そのスタイルを続けようと思えば、まだまだ続けられたのだが飯嶋和一を再度紹介したことで、その方針は今回で一応縛りがなくなったこととなる。スタイル継続は簡単なのだが、一度紹介した著者の新たな傑作を読んでも紹介できないっていうのは、何とも勿体無い話だからである。

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by kotodomo | 2005-05-30 07:42 | 書評 | Trackback(1) | Comments(0)
2005年 05月 29日

◎◎「神無き月十番目の夜」 飯嶋和一 河出書房新社 1890円 1997/6

b0037682_21413015.jpg 凄い凄い、もの凄い。圧倒的な描写も、けれんみのないストーリーも、時空を越えた透明感も。

 読書中も、本を閉じた後であっても、非常に衝撃を受けた本である。まだ、衝撃さめやらず、主観的な話をしそうになるのだが、ここはひとつ客観的に紹介したい。でも、主観的なことを、まずひとつ。

 以前、雑誌"ダ・カーポ"で、「我が生涯最高の一冊」という本にまつわる企画に際し、知識人、有名人を中心に"私の一冊はこれです"なんて記事を読みながら評者は考えた。はたして、そのような本が自分にあるのだろうかと。その時は、やはり詩集なら島崎藤村だし、短編集なら川端康成「掌の小説」だし、小説だったら分野によって感じ方が違うので、あれもこれもとなってしまい、一冊には決められないなと思ったりしたものだったが。ところが、本書を読んでわかったことなのだが、そんな小説の分類の中で、評者の心の中には"圧倒された本"とういう分類があったらしい。今回、本書がそこに君臨することとなった。君臨して初めて、今までそこに鎮座していた著書の存在を意識した。12年目にして初めて、その座を譲った本の名は、参考までに「リビィエラを撃て」高村薫である。さあ、主観はここまで。

 1602年陰暦十月十三日に、大藤嘉衛門は御命により小生瀬(こなませ)の地を踏む。小生瀬の村を検(あらた)めるためにだが、しかし、そこには村人はいかった。二、三日前までは、村人が生活していたようではあるのだが。そうなのである。嘉衛門が受けた御命は、村人の所在を突き止めることにあった。読む者の興味を惹き付けるのならば、ここで村人の所在を伏せたまま、物語を進行させれば良いようなものだが、作者はその所在を明らかにしてしまう。只ひとつ、騎馬衆石橋藤九郎の所在だけは、突き止められない。そして、物語は13年前の藤九郎の初合戦に話を移し、本編に入っていく。

 石橋藤九郎を中心に据えて物語りは進んでいくが、作者が考えている主人公というのは、おそらく小生瀬の村であると思われる。村の存亡そのものが、この物語の核をなし、藤九郎その他の人間を書き込むことによって、主人公である小生瀬の村が浮かび上がってくる。

 村の存亡と書いたが、1602年という年は、1600年に関ケ原の戦いで徳川家康が石田三成らを倒し、1603年征夷大将軍として江戸幕府を開場するあいだにあたる。家康は、全国の支配者であることを明示するため、各地に国絵図、郷帳の作成を命じ、年貢のための検地もこの間に行われた。小生瀬の村も、幕府の直轄地としての検地が入ってくることになるのである。

 この、検地が平等なのである。平等な検地という表現に驚くかも知れないが、元来不平等な世界に、平等を持ち込むことほど不平等なものはない。場所の悪い作の良くない田でも、豊穣の田でも、凶作のときの田でも、豊作のときの田でも、同じ様に年貢を納めなさいという平等である。面積を平等に測るだけで、それぞれの田の事情を考慮しない検地なのである。

 それじゃあ、村全体で反対すれば、何とかなるのでは、というのは、徳川家康の目指す江戸幕府には通用しない。そのような村があれば、村ごと滅ぼして、他の村への見せしめとする。滅びた村の年貢は無に帰すが、見せしめとしての影響で、村一揆の予防になり、全体の年貢高は確保される。

 表題の「神無き月十番目の夜」は、十月十日の夜、すなわち村人の楽しみである祭事"十日夜(とうかんや)"を表す。物語の序章は1602年の十日夜を過ぎたところから始まる。一転、本編の藤九郎を中心に据えた物語は、そこを遡ること13年前から始まり、1602年の十日夜を目指して進んでいく。村の適齢期の男女の恋心の書き込み、大人になるために青年が般若心経を修めにいく挿話。そんなキラキラ光るものにまみれて、小生瀬の村は神無き月十番目の夜を目指す。

 著者飯嶋和一は、たまに、希代の寡作家などと紹介される。1989年「汝ふたたび故郷へ帰れず」1994年「雷電本紀」1997年本書2000年「始祖鳥記」という具合に、昨今の一年に1冊もしくは2冊という作家の風潮からは、遠いところに位置する。2000年出版「始祖鳥記」も、非常に評判が良かった作品である。おそらく、読んだ人が考えたであろうことは、"ああ面白かった。次にこの人の作品を読むのは3年後くらいかな、その時が今から楽しみ"、そんな寡作の"佳作家"なのである。

 読め、読め、読めの凄い一冊である。評価にあたっても、◎◎ではなく、◎◎◎か、何か他の☆印などを新設しようかと思ったほどである。但し、心して読め。ページが文字で埋まっているので、読むのに通常の2倍の時間がかかる。言葉の意味も重いから、噛みしめていたら、尚更時間がかかる。時間がかかってもいいから、何回でも読み返したい一冊である。

※県立、市立どちらの図書館にもあり。河出文庫として、既に文庫化済。評者は図書館で借りてしまったため、文庫を買うか、単行本を買うか迷っている。やはり単行本だな。我が生涯最高の数冊のうちの一冊だから。

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by kotodomo | 2005-05-29 21:45 | 書評 | Trackback(5) | Comments(2)
2005年 05月 29日

飯嶋和一のことども


◎◎ 『雷電本紀』
◎◎ 『神無き月十番目の夜』 読むべし、読むべし、べし、べし、べし!
  〇 『汝ふたたび故郷へ帰れず リバイバル版』
◎◎ 『始祖鳥記』
  〇 『黄金旅風』

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by kotodomo | 2005-05-29 20:25 | メモる | Trackback(4) | Comments(0)
2005年 05月 29日

〇「黄金旅風」 飯嶋和一 小学館 1995円 2004/3

b0037682_20154546.jpg 今、この文章を書きながら、二つの旅路を思い出している。

 一つは2年前の天草への旅。野郎三人、一泊二日で出かけた車の旅、そこの旅先で親切な美人歯科医母娘がせっかくだから天草を案内するという。嬉しいのだが、天草である。何があるって、天草である。天草にあるものと言えばあなた…切支丹弾圧の歴史である。野郎三人バカンス気分で来たのに、資料館でお勉強とはトホホ。でも行ってよかった、勉強になったし、本を読みながら旅路を思い出すってことは、役に立つ旅となったわけだ、うんうん。

 小学校の歴史の時間、切支丹弾圧のところで必ず目にする踏み絵の写真。評者ならずとも多くの人が思ったはずだ。なんで踏まないの?殺されるくらいだったら踏めば。そのほうが心の中の宗教をいつか誰かに伝えられるのにと。天草で見た資料館でまず感じたことも、それであった。みんな宗教にしがみついて死んでいく。なぜ、生き延びて宗教を伝えようとはしなかったんだと。キリスト教は自死とか嫌うんじゃないの。これってまさしく自死じゃんて。ところがキリスト教は殉教を賞賛するわけだから、みんな死んじゃうわけだ。ようわからん。そうそう、資料館で見たら、隠れて宗教するためにみんな色んな工夫をしていたぞ。信者が死んだら、表向き坊さん読んで読経をお願いするのだが、坊さんが読経する上に隠し屋根裏部屋があり、そこで同時に主教の祈りをしていたりとか、仏像の中にマリア様が隠してあったりとか、本当に宗教を守るために智恵を出していたようである。

 何故に幕府がキリスト教を弾圧したかって?元々は半島から儒教の教えが伝わっていた日本。目上の人には礼を尽くす、ってことは、士農工商その下まで階級を定め、上下関係を明確にし、上から圧政をしやすくするのに丁度よかったわけなのだけど、キリスト教は平等を説く。人々が平等を叫んじゃいかんとして、弾圧にかかったわけなのである。

b0037682_2016728.jpg さてと…なんだっけ…そう旅の二つ目。地図を出してほしい。読書好きは地図は必携ぞな。早よ、出さんかい。あ、出した、そう。で九州は、鹿児島のとこを開いてもらって、右に大隅半島、左に薩摩半島がきてるわなあ、で、大隅半島の下のほうに種子島、屋久島と位置してるわけだ。その左(さっきから上下左右って言ってるが、東西南北よりいいだろう、平面だし)薩摩半島の下に小さな島が三つ並んでおるだろう。この三つで三島村という一つの村だ。右から、竹島、硫黄島、黒島だ。信号ないよ。自販機ないよ。農業もないよ。漁業もないよ。でも人は住んでいるし、学校だってあるよ。結局、こういうところの公共事業も進めないといけないわけで、そこに雇用が生まれたりして地球はうまく回ってくれているわけである。で、何が言いたいのかというと、その黒島につい最近行ってきた評者なのである。湾内の納涼船で酔うようなやつである。それが片道5時間外洋に出るのである。薬も買った。「トリベミン」。「トラベルミン」もあったが、薬剤師が「トリベミン」のほうをやたら勧めて、「トラベルミン」の偽物じゃねえのか?なんて思いながら、買わされてしまった「トリベミン」。ところが効いたね、この「トリベミン」が。元気ピンピン船の旅。地図で見ると近いような島も、船で外洋に出ると360度何も見えない地点のほうが多い。水平線は丸いのか、見える範囲で丸く見えるのか、そんな哲学をしていると島が見えてくる。本当に、本当に、“島が見えたぞ~、陸が見えたぞ~”そんな感じがするのである。竹ばっかり生えている竹島、絵に描いたような火山島の硫黄島、それに黒島、地図でみたら小さな島も、海でみたら大きな陸なのだ。ちょうど本書『黄金旅風』を読みかけの時期で、昔の人たちはよく台湾とかまで出かけていったなあ。凄いなあ。俺なんて5時間で凄い冒険なのに。長崎から台湾の先まで「トリベミン」もないのに凄いなあってね。

 本書『黄金旅風』、時は関ケ原が昔でない江戸初期。中心となる舞台は長崎。材料は航海貿易&切支丹弾圧。これで粗筋紹介終わり。

 飯嶋和一の書く小説というのは、通常の歴史物、時代物とは違い、主人公がいるようで不在、本当の主人公は時代や背景だったりするわけで、粗筋もあるようでなく、時代の流れが実は粗筋だったりするわけである。そういう意味で評者は大好きなのだが、今回はどうも…実在したであろう藩主、閣老、政治問題、外交問題、各種施策、そういった物が多過ぎて、今ひとつ物語の中に入り込めなかったのである。本書『黄金旅風』より『始祖鳥記』が好きで、『雷電本紀』がまずまずな評者は、やはりこの作家のベストは『神無き月十番目の夜』だと個人的には思っている。なんでこんな題材の歴史を描いたんだと思いながらも、作品の中に引き込まれてしまう、そういう世界を今一度堪能したい評者なのである。(20040417)


※この作家の本を読むのには深呼吸が必要である。この人の本は読み終えるのが途方もなく先に感じられるほど、ページ数文字数漢字数ギッシリだから。読み終えると、フウである。

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by kotodomo | 2005-05-29 20:16 | 書評 | Trackback(1) | Comments(4)
2005年 05月 29日

本日の読書と今回の古川作品のことども

右側→のコンテンツに気まぐれで、「次の書評はこれ?」っていうのを作ってみた。

で、本日はお気楽な『カジノを罠にかけろ』ジェイムズ・スウェインを50ページ読んだところで、図書館へ。
借りてきた古川日出男の『ベルカ、吠えないのか?』これを先に読み始める。
古川作品は、粗筋作品ではなく文体作品なので、休みの日に落ち着いて読み始めたいので。
なるほど、今回は最近の傾向とは違い、従来型の重量級文体。
ちょっと軽みが入りながらも、やっぱ中々深く、概念的。
2/3まで読了。
あとは疲れた脳みそをほぐすために、風呂&晩酌&就寝(^.^)
明日の晩のお楽しみにしよう。
ちなみにもう評価記号は決まっている。多分。◎
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by kotodomo | 2005-05-29 18:26 | メモる | Trackback | Comments(0)
2005年 05月 28日

◎「ボストン、沈黙の街」 ウィリアム・ランディ ハヤカワ文庫 1050円 2003/9

b0037682_2353554.jpg 毎月のように鹿児島と東京を往復する評者にとって、本当に東京ってところはどこか荒んだ街だなあと感ぜられる。まず、繁華街や駅であんなにせかせか歩いたり、歩行中の進路が色んな人と重なってしまうようなことが日常現象として存在していること自体が鹿児島では考えられないし、例えば評者の住んでいる洗濯物が荒川区のように、道を歩いている人の約4割が日本語以外の言語(多くは中国語)を話しているような異様な光景も考えられない。鹿児島では人が殺されようものなら3面記事の多くの部分が割かれるが、東京の場合は場合によっては隅記事である。じゃあ、鹿児島では殺人事件が起きなければどういう記事に紙面が割かれるの?と思われるかもしれないが、う~ん、交通死亡事故なんかが多いかな。一度などは、落雷が牛舎に!牛100頭が死亡!なんてのが大きく載っていたっけなあ。東京なんかでは、交通死亡事故、載るか載らないかわかんないし。とにかく、事件性のある事件のほうが多いんだし。牛が100頭死ぬなんて、事件性のない事件だし、みたいな(^.^)

 だから、鹿児島の、例えば僻地の、例えば三島村の硫黄島の駐在さんなんかが、東京の新宿あたりに職務で放り出されたら驚くだろうなあ。繁華街も物騒だし、ホームレスなんて基本的に鹿児島にはいないし、みたいな(^.^)

 本書の主人公ベン・トルーマンは、田舎の若き署長を務める。避暑地の湖なんていうのがあって、ロッジなんかに夏だけ観光客が来るようなそんな田舎。そこのロッジで射殺死体が発見されて、このサスペンスは動き出す。

 ところが、事件の根源はボストンにあり。いざ、ボストンへ出向く主人公。猥雑な都市での、協力と反目、真実と罠、友情と裏切り、恋と職場、そんなものに塗れながら、主人公は事件の真相へ向かって進んでいくのである。

 しかし、本書、新人の長編デビュー作という観点を考慮に入れずとも、実に大作、実に傑作、実に衝撃作であり、ジョン・グレシャムあたりのデビュー作を彷彿とさせる。サスペンスではあるが、どこかのんびりした主人公の空気も悪くないし、そしてその空気が一転張り詰める終盤は、衝撃的なミステリーの世界なのである。

 このミス2004年版海外編7位ランクイン作品。そういえば、そういうのあったなあ、読もうと思っていたけど結局・・・そんな方は是非に読むべし。読んだらやっぱり面白かったあ(^O^)/(20050528)

※鹿児島の薩摩半島の南に位置する三島村の硫黄島というマイナーな地名を挙げたが、実はこれ、今鹿児島の我が家では話題の地名なのである。来週の月曜日から、上の娘が学校行事として一泊二日でこの島へ宿泊学習に行くらしい。トイレの設備が充分でないとか、野外学習で虫に刺されたくないとか、おまけに海が荒れると本土に帰れなくなる惧れがあるので予備の食料を持って行かされたりとか、なんでそんなとこに行かなきゃいけないの!と上の娘は不機嫌らしい。遠足の前とかはウキウキしているらしいが、今回は一切その話に触れようとせず、おまけに準備もする気がなく、仕方なく嫁さんがお米をペットボトルに入れてえ、予備の水も持たせてえ、みたいな準備をしてあげているらしい。下の娘は“私、5年生になっても宿泊学習は行かないし♪”と今から宣言しているらしい(^.^)(書評No523)
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by kotodomo | 2005-05-28 23:52 | 書評 | Trackback(1) | Comments(0)
2005年 05月 28日

明日は久々図書館に行くのだ(^.^)

借りる本は

b0037682_7353230.jpg『君たちに明日はない』 垣根涼介
『オルタード・カーボン』上下  リチャード・モーガン
『ベルカ、吠えないのか?』 古川日出男 
『帝都東京・隠された地下網の秘密』 秋庭俊
『慟哭』 貫井徳郎
『サラン-哀しみを越えて-』 荒山徹

再度借りる本は

『さらば、愛しき鉤爪』 エリック・ガルシア
『カジノを罠にかけろ』 ジェイムズ・スウェイン

久々の荒山徹作品が楽しみ(^.^)
この人の作品は、○以上間違いないし。
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by kotodomo | 2005-05-28 07:35 | メモる | Trackback | Comments(0)