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「本のことども」by聖月

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2005年 06月 11日

〇「ボーダーライン」 真保裕一 集英社文庫 800円 2002/6

〇「ボーダーライン」 真保裕一 集英社文庫 800円 2002/6_b0037682_1439756.jpg 多分、本書を面白く感じるかどうかは、読者の経験や考え方、現在おかれている状況その他によっての、心の琴線に触れるものがあるかないかで大きく違ってくるのだと思う。残念ながら、評者の琴線を奏でてくれなかった本書であるが、それでも評価は〇。読む人によっては、◎にも◎◎にもなるだろう。

 「ホワイトアウト」「奪取」以来、久々に大きな反響を呼んだ本書は、構成や文章などもなかなかのもので、このミス2000年版でも6位にランクインした作品である。

 なぜ、評者の琴線に触れなかったかだが、本書では大きく親子関係というものが中心に据えられている。親子の愛というよりは、親の責任とは何かとか、親として始末(清算)しなければいけない親子関係が存在するのだろうかといったことがピンとこなかったのである。評者の家庭には、8歳と4歳の娘が二人いるのだが、お陰さまでのんびりとした本能的な親子関係で日々つつがなく過ごさせていただいているので、本書に出てくる特別な親子関係が、今ひとつ実感を持って読めなかったのである。

 主人公は、日本を飛び出し、アメリカで探偵を生業としている永岡修(おさむ)、通称サムである。探偵としての免許も取得しており、もっかのところ大手信販会社のトラブル処理を中心に仕事を進めている。本書での注目すべきところは、アメリカにおける探偵の免許とはいかなる資格かというのを、わかりやすく伝えているところにある。よく海外の小説を読むと、無免許探偵なるものが出てくるが、日本の探偵自体に免許制度がないため、それがどういう意味を持つのか日本の読者にはよくわからない。著者もそこらへんの事情がわかっているので、当然に日本人である読者にわかりやすく伝えてくれる。そういう知識が吸収できるということだけでも、本書を読む価値はあるかと思う。

 その主人公サムのもとへ、日本からの特別な依頼が舞い込む。アメリカのどこかにいる自分の息子を捜しだしてほしいというものである。アメリカのネオン街で撮影された息子の写真も、捜索の手掛かりにと添えられている。この息子は、日本にいる間に家族の元を去っており、家族も知らない間にいつの間にか海を渡っていたという。それにしては、最近アメリカで撮られた写真が親の手元にあるのはおかしい。どういう状況で撮影されたのか?誰が撮影して親が現在の息子の写真を持っていることとなったのか?そういう疑問から、読者は興味を持って読み進めることとなる。結局、父親自身が渡米してきて、自分の手で息子を捜し出すと言い出すのだが。

 サイドに語られるストーリーとして、主人公の同居人の不在が、主人公の心の中の事件として展開する。一緒に住んでいた女性が、ある日突然いなくなったのである。職場を辞め、主人公のもとからいなくなってしまった女性である同居人。最初のうち、多くは語られないため、単なる異性のルームメイトなのか、日本で言うところの同棲相手なのか、そこらへんもはっきりしないまま、同居人の所在を確かめたい、不在の理由を確かめたい、という主人公の一人称の胸中が展開されていく。

 もうひとつ語られるテーマがある。実は、息子を捜す父親にとって、この息子というのが手に負えない存在なのである。息子が家を出る前は、その息子によって、家族全員、父親も母親も妹も傷を負ってきた。息子が家を出て、ホッとしてほっとけばいいのにと思う評者なのであるが、この父親はそうは考えない。それでも息子を愛している、愛しているから捜すんだと主人公に言う。そのとき、父親が一緒に語った内容の中に、生まれながらにして悪い心を持って人間というのは存在するのかどうかという命題が含まれている。生まれながらにして、悪い人間は存在するのか?評者は、存在するとは言わないが、人は生まれながらにして、それぞれの性質を持っているということは理解している。二人の娘によって。

 上の娘は、生まれながらにして天使の心を持っていた。ものごころついて会話も人並みにできるようになったとき、子供は親に許可を求めたりするものである。"ねえ、ママ、○○していい?"と。ところが上の娘は違った。"ねえ、ママ、〇〇したらいけないよね?"と。とにかく悪いことに踏み出さないようにという清らかな心が、そういう質問の形になって表れるのである。あわててママである嫁さんは、"まあ、しても構わないのよ"と言って、心の不安を取り除いてあげることとなる。

 また、上の娘は、福音のようなものも自然に信じてしまう天使の心を持った子供でもある。まだ今より小さな頃、ママにお皿にビスケットを3枚入れてもらって、それを食べながらテレビを観ていた。全部食べきり、おいしかったのでママにねだる。"ママ、もう一枚食べたい"そう言ってテレビにまた夢中になる。そして、またお皿を見るのだが、忙しいママはまだ入れてくれていない。"ねえ、ママ、もう一枚ビスケットちょうだい"と言って、またテレビに夢中になる。そして思い出して、お皿を見るのだが、ビスケットは入っておらず、ママは相変わらず台所で忙しそうである。"ねえ、ママ、もう一枚"と言って、またテレビに夢中。今度はママの手も空いて、さっきから聞こえていた娘のリクエスト通り、ビスケットを1枚皿の上に載せてあげる。テレビから目を離した娘は、今度はお皿に目を向けず、先にママの様子に目を向ける。ママは再び台所に戻って忙しそうに立ち振る舞っていたので、娘はもう一度"ねえ、ママ、ビスケ…"と言いかけて、お皿の上のビスケットに気づく。そして娘は言った"神様ありがとう!"そう、娘の頭の中ではママはずっと台所にいたはずで、ということは、ここにビスケットを入れてくれてのは、きっと神様に違いないと考えたからなのである。なんと、可愛い娘よ。

 ところが、下の娘は、生まれながらにして悪魔の心を持っていた。ものごころついて会話も人並みにできるようになったとき、子供は親に許可を求めたりするものである。"ねえ、ママ、○○していい?"と。ところが下の娘は違った。許可を得ずに、何でもする。いちいち親に許可なんかもらってられねえと、いいこと悪いことお構いなし。たまに"そうだ、いいこと考えた♪"と言うときは、必ずといっていいほど悪いことをしでかす小悪魔なのである。

 一度、あまりにも言うことを聞かないので、下の娘の頭を軽く叩いた。痛くない叩き方なのだが、それでも教育的に叱咤する意味合いで叩いた。泣くかと思ったら、キッと評者に目を剥いて、仕返しに評者の頭を叩こうと手を挙げたが、すぐに身長差があり過ぎて叩けないことに気づき、すねにパンチしてきた。恐るべし下の娘よ。お前には、おそれる心とかないのか!ああ、先が思いやられる!と思っていたら、言葉を覚えたり、天使のお姉ちゃんと一緒に遊んだりしているうちに、世の中の優しさや楽しさが、下の娘の心に沁み込んでいって、今では優しい可愛い娘に育ってくれた。ヨカッタ、ヨカッタ。

 それでも、今でも、上の娘と下の娘は、天使と小悪魔に見えてしまう。先日の日曜、読書の合間に、喉の渇いた評者は書斎から階下におりて、冷蔵庫から缶入りカルピスウォーターを取り出した。下の娘がそれを見て"あっ、パパいいな。あたしも飲みたいな♪""いいよ、少しわけてあげるよ"と言って、コップに注いであげた優しい評者。上の娘が、下の娘に言う"一口でいいから、私にも飲ましてね♪""うん、いいよ、ちょっと待っててね♪"と返事して、わざと全部飲んでしまう下の娘。"ああん、全部飲んじゃった(*_*)"と言う上の娘に"お前の分は、こっちのコップに用意したよ"とすかさずフォローする評者。素敵な父親の鑑みたいな立派なパパの評者なのであった。

 途中から、話が変な方向に行って、文章の感じさえも変わってしまったが、かように人は生まれながらにして性質の違いがあるのであった。(20020715)

※単行本は1999/9に集英社より出版。
ところで、最近、文章の末尾に数字を記入してあるのにお気づきだろうか。読み終えた日を、便宜的に入れ始めたのである。読み終えた日と、アップした日にちに今回差があるのは、晩酌のせいである。焼酎のせいである。基本的に読み終えた日は書評は書かずに、その日はそのまま次の本を読み出し、翌日になって"さあ、いっちょ書いてみるか。今回はバカ話にならないように気をつけよう"というのが、最近のスタイルである。もし、数字の記入がないのが今後出てきたら、そのときは毎晩焼酎の飲みすぎで読書がはかどっておらず、過去の本を持ち出して書評を書いたのだと判断してほしい(^^ゞ

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by kotodomo | 2005-06-11 08:18 | 書評 | Trackback | Comments(0)


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